1ヶ月近くたち、だいぶ落ち着いたのでこの話しができるような気がする。
半ば自分自身に母との別れを認識させるために、時々に事実を淡々と書き綴ったものなので風情はないが、感情抜きに書くほうが気持ちを落ち着かせるためにはなっていたように今は思う。
その日は朝に姉から母の危篤の連絡を受け、東京から新幹線で駆けつけ京都の病院には午後2時についたが、その時点で母に意識はなかった。
意識は明け方からなく、一時間おきに一回程度発作がおき、その発作時には心拍が300を超え、全身の筋肉が収縮し、投薬するまではその状態が収まらず、見ているだけでもつらい状態であった。
そんな状態でも、もしくはそんな状態だからこそか、母の手を握り話し掛けを家族4人で変わりばんこにしていた。
手を握っているときに発作が起きると母が僕の手を握るので、母が生きている実感を得たが、頭の片隅では発作による筋肉の収縮だとわかっているのだけでも、握り返しているようにしか思えないし、そう思いたかった。
その後夕方には担当医から今夜から明日の明け方が…との話をうけ、家族4人全員が母の病室にとどまることに。
ドラマのように看護婦さんが母の病室に走って来たその時には、母の脈拍は40をきっていた。
すぐに担当の医師が来て対処する中、父と姉が母に一生懸命呼びかけていたが、病室にはむなしく心拍停止の音が響くだけだった。
先生が脈拍確認、聴診器による心拍確認、ライトを瞳孔に当てることによる反射チェックの後、死亡が確認された。9月8日夜10時15分であった。
一連の流れがゆっくり行われたが、僕には一瞬のことに思われるほど何の動きも出来ずただただ茫然と見ていただけだった。
母の死のショックはやはり良く看ていた父と姉が大きく、見ているこちらもつらくなるほどであった。
母が希望していた死装束である白いシルクのパジャマを自宅に取りに帰ろうとした父は明らかに車を運転出来る状態でなく、僕が運転して父を乗せてそのパジャマを取りに帰ることにした。
今思えば父の動揺により僕がしっかりしなくてはとの思いに自然となり、心理的に比較的普段と変わりのない状態を保てたのだと思う。
でも、その時にはそこまで考えが及ばず父や姉ほど悲しくないのは、僕が情に薄いのではないかと勘ぐっていた。
看護婦さんたちがエンゼルケアをしてくれた後、母が希望していた白いパジャマに着替えさせ、姉が母に化粧をしてくれた。
その後葬儀屋の人が母を病院から実家まで連れて行ってくれて、その日からお通夜までの36時間、母は自宅でゆっくり過ごせることができた。
ただ、葬儀屋の人が母の近くにドライアイスを置き、麻で着物の襟のようにしてくれたが、その動作を見ながら、それじゃあ左前になって逆になるじゃないと思った。
でも死者は左前で着るものだけど、その時に母が死んだことを頭でわかっていても心底ではわかっていなかったことがわかった。こういう時に改めて母の死を実感した。
母が家にいる間家族4人で変わりばんこに母の世話をした。僕は3時間くらい母に話し掛けをしていたが、葬儀屋に母の遺志をうまく伝えられない父、ネクタイをうまく一人で結べない父、喪服の用意を一人でできない父、こんな父を残して行って母は心配やろうとか、こんな父を残してどうしてくれるのよと半ば笑いながら責めたりもした。
その後お通夜の日から甥っ子姪っ子が来てくれて、すごいパワフルでお葬式始まるまでに相手をしていた僕はヘトヘトになっちゃったくらいだった。
でも甥っ子姪っ子が騒いでくれてるおかげで、表向きだけでも家族が沈み込まず過ごせて助かったような気がする。
お通夜では自分自身悲しさをほとんど感じなかったが、お葬式の途中にはもう母と一緒に何かすることも出来ないんだという当たり前のことに気付き、打ちのめされ、自然と涙が込み上げてきた。
斎場で母が焼き場に入ったときに母が死去してから初めて兄が涙したのを見て、僕はホッとした。
父の狼狽のために兄が葬儀関連を仕切っていたのでなかなか素直に感情の吐露が出来なかったのではと思っていたから本当にホッとし、兄のためにも良かったと思えた。
お葬式の後はそのまま斎場に行き御骨になるのだが、この一連の流れは性急ではあるが別れを認識するため、させるためには必要なものなんだと今は思える。その時は母の死去からお葬式まで休みなく何らかの作業が続いていて体の限界が家族それぞれに来ているようだった。
今となって思うのは配偶者を失う辛さと父母を失う辛さの違いであり、父の辛さは僕以上であり想像以上のものなんだなと素直に思える。
だから、一人悲しみに耽るのはほどほどに父を陰日向に支えていかなきゃいけないなと思う。ちょいちょい子供っぽい父にキレながらやけど。